イタリアでラーメン?! 

G5 赤司琴子


一口食べたラーメンは、ほっぺたがおちるほどおいしく感じた。
夏に行ったイタリアでは、ツアー旅行だったのでいつも団体で行動した。だからあんなに楽しみにしていた食事も自由ではなく、すべて決められていた。
しかも、でるごはんのメニューはほぼ同じでマカロニパスタが前菜、あとにお肉と、ハーブがとても効いたポテトがでる。みんなはそれにあきあきして一回だけある自由行動の日をとても楽しみにして待っていた。
 いよいよその日がやってきた。私たちは、朝からたくさん買物をしてお腹がペコペコになったので、新しく友達になった人とどこかに夕食を食べに行く事にした。
私は“もうパスタはやだよ!”と笑いながら言った。結局、私たちは中国料理屋に行く事にした。そこのレストランはいろいろな国の料理があり、私はラーメンをたのむ事にした。長い間食べていなかったので、とてもどきどきした。
 ようやく、湯気がたくさん出ているアツアツのおいしそうなシーフードラーメンが私の目の前に置かれた。
まず最初にしるをのんだ。思わず 「あーおいしいー!!!」とさけんでしまった。
お姉ちゃんは 「天国―!」 とさけんでいた。
久しぶりに食べるラーメンは長崎ちゃんぽんの味がした。次にめんを食べた。夢中になって食べているとママに“満足そうだね”と笑われた。他にもいろいろな料理が来て私は食べ過ぎるほどたくさん食べ、お腹がいっぱいになった。
 店の中には優しいおじさんがいて最後に全員での集合写真を撮ってくれた。店を出るときに中国人の店員さんに“シェシェ”と言ったらその人も“ありがとう”と手をふってくれた。
イタリア旅行の思い出がラーメンになるなんて考えもしなかった。大人になったらもう一度フィレンツェにあるあの中国料理屋に行きたいな。

象に乗って学んだ事 

 

G5 赤司琴子

のっしのっし。象が私を乗せて歩いています。
4年生になるまで私は象に乗る事が別にだめだとは思いませんでした。だから日本から来たお客さんや友達をサファリパークに連れて行っていつもいっしょに象に乗っていました。
 ある日学校で、先生が言いました。“今日はタイの象を守ろうとしている人たちが来たので会いに行きましょう。”私は“象を守るなんてどんなことをするんだろう?”と思いながら先生についていきました。
部屋に入ったら女の人が一人いました。その人の名前はレックさんといって、タイ語では小さいという意味だそうです。レックさんはチェンマイのエレファントナショナルパークを始めた人です。象はそこで自由に生きます。象はサーカスやどこかで働かされているのをレックさんが買ったので、最初は人間をとてもこわがると言います。
 レックさんは、象に乗る事や、サーカスに使う事が象をどれだけ精神的に傷付けるかを熱心に教えてくれました。
 私はレックさんから象だけではなくブラックパンサーもナショナルパークにいると聞いてとてもびっくりしました。何故なら私の学校のマスコットシンボルでもあるブラックパンサーは世界に十頭しかもう残っていないからです。
 レックさんが象の下に座って休んでいる写真を見せてくれました。私はそれを見て“一度でもいいからあれをやってみたいなー”とあこがれてしまいました。けれども沢山の象使いはレックさんの考えを批判して時々わざと象たちに石を投げることもあるそうです。
私は自分が何も知らずに象の気持ちを考えずに象に乗っていた事がとても恥ずかしく思えました。
私は、もしレックさんと会っていなかったら多分これからも象に乗っていたと思うので、これは大事な思い出となりました。
今度のお休みの時にはチェンマイに行ってレックさんのナショナルパークで象といっしょに遊びたいです。

四万十川でサンダルが流された話

            

Y5相山武慶

今日はかなしい日でした。
なぜなら川でビーチサンダルが流されてしまったからです。ぼくは橋の下にいて、上にいるお母さんに言いました。
「お母さん、ぼくのビーチサンダルをキャッチして。」
お母さんは、 「だめ!」と言いました。
 けれどもぼくは、その時にはもう投げていました。
すると、サンダルは、お母さんに届かずに川の深い所に入ってしまいました。すぐにぼくは水に入ってサンダルを追いかけていきました。でも、サンダルは遠すぎてとどきませんでした。

ぼくはがっかりしてお母さんの方へ行きました。お母さんはかみなりをおとすほどおこっていました。
でも、ぼくがあやまったら、ゆるしてくれました。そして、持っていたもうかた方のサンダルをぼくにわたして、
「遠くに投げてみて。」と言いました。
ぼくはサンダルを投げました。すると、サンダルはあまり遠くへ行きませんでした。
「今度は石を投げてごらん。」
ぼくは石を投げました。こんどは、すごく遠くへ行きました。
それで、ぼくは、サンダルは軽いので風があるときにはあまりとばないということが分かりました。ぼくはもう二度とサンダルを投げません。
一つになったサンダルは大切に取ってあります。

戦争ジャーナリスと言う仕事

Year9 相山理衣

私は、この文章を読んで、戦争ジャーナリストの様々な事を理解しました。
どれだけ厳しい仕事なのか、そしてどんなに重要なのか知る事ができました。
簡単に言うと、戦争ジャーナリストとは戦場を取材する仕事です。しかし、こうして文章にして読むと、その厳しさが伝わりにくいです。
実際に考えて見ると、戦争ジャーナリストは爆弾や弾丸などが空を飛ぶ、危険な場所に行って、そこで見た悲惨な出来事を味わって他の国々に知らせるのです。しかし、戦場で体験した思いを一生忘れられずに、あまりのショックで、心的外傷を受けてしまうこともあります。最悪の場合にはPTSDになる可能性もあります。だから何度も取材に行けるには、それほどの強い信念と使命が必要になります。
本当に平和な世の中になれると信じなければ出来ない仕事です。  
また、この仕事は普通の人々が耐えられないことをしていると言う点で重要だと思います。戦争ジャーナリストの人たちは、戦場で見た、苦しんでいる姿を世の中の人に伝えて、世界中の人に戦争の恐怖を教えています。
もしも戦争ジャーナリストという仕事がなかったら、私たちは戦争の真実を知らなかったでしょう。たくさんの命が失われていること。突然爆弾が降ってくる不確かな恐れのこと。
知らない間に、戦場ジャーナリストの彼らは我々の知識と理解を深めていたのです。
 戦争が繰り返されている歴史を次の世代が変えられるように、彼らは世界に報道しています。戦争ジャーナリストという仕事は、今すぐ苦しんでいる人たちを助けることはできませんが、長期に渡って重要な役割を果たします。
まさに「平和への第一歩」だと思います。